朝6時半の破水から15時間を掛けてやっと産まれてきた子供。
長時間の難産で、子供を子宮から出すのに吸引したため頭が縦に長く瓢箪のようになっていましたが しっかりとした可愛い子供でした。
体重は3010gでした。
妻も子供も本当によく頑張りました。

妻は長時間の出産で疲れ果てていたので、最初の授乳は、私が妻の母乳を妻の目の前で哺乳瓶から飲ませました。

何日間か入院した後に退院し、産まれた子供を連れて親子3人で家に帰りました。

私も妻も両親が既に他界しており、親戚も近くに無いので、この日から子供と3人での生活が始まりました。
夜は、妻をユックリ寝かせるために、子供の泣き声が聞こえない子供から離れた部屋で寝かせ、私が子供の傍で寄り添って寝て、3時間おきに起きてはミルクを飲ませました。

昼は、私は店舗に仕事に行きますので妻に任せました。
仕事が終わると急いで家に帰って、寝ている子供の横で2人で食事をし、食事が終わったら僕が子供を風呂に入れてやるという生活を続けました。
でも、しんどい、疲れたと思ったことなどは一度も有りませんでした。
嬉しいばかりでした!
僕が仕事から帰ると玄関まで迎えに来てくれました。
最初のころはハイハイで、しばらくすると歩行補助器で出迎えてくれ、何とも言えないニヤ~とした笑顔で迎えてくれました。
今日は公園デビューした、今日は電車を見に行ってきた・・・毎日、その日にあった事を話してくれました。

子供が生後6ヶ月を過ぎたころ、夕食中の雑談の中で「子供が少し成長したらどうする?」って妻に尋ねました。
妻は、「少し落ち着いたら保育園に預けて私はお店をしたい。 子供のためにもたくさんの中で育つ方が良い。」と言っていました。
「自分は、子供服と小さな子供を持つお母さんのための店をしたい。」と言いました。
その当時、ヤングミセスと言われる年代の商品は既に店舗で扱っていたので、それなら簡単だと思い「良いね! やろうと!」と大賛成の相槌を打ちました。
「いつを目標にする?」って聞いたら「子供が1歳半になって保育園に入れたら。」って言っていました。
保育園に入ったら夕方まで時間が空くので、店に出て、自分もみんなと交流していきたと言っていました。
妻は、子供が1歳半になったら保育園に入れて、早く子供同士の中で育てたいと思っていましたし、そうすることで子供が成長すると思っていました。
その意見に僕も賛成していました。
そんな話をした頃には、地元新聞の「きょうで満1歳」の記事の欄を切り抜いて集めていたので既に考えていたのかも知れません。

私の息子は、よその子より立ち上がるのが遅く、生まれて10か月目くらいまで立つ事が出来ませんでした。

でも、生まれて9か月目くらいの時に、子供に妻の生まれた離島を見せてやりたくて旅行に出かけました。
妻の生まれたところは、鹿児島から更に南の離島なのですが、鹿児島まで行く飛行機の中では抱っこしていても泣き喚き、床に下すと泣き止むのですが、乱気流でシートベルト着用サインが出ているのに床に下さないと更に泣き喚き、夫婦2人して周りの人に謝りまくりました。
必死になってあやしたのも良い思い出です。

妻が生まれた離島に到着し、妻の姪たちとマージャンをしている時、初めて、一瞬柱を持って立ったような気がしたのですが、1秒もしないうちに崩れてしまいました。

旅行から帰り、お盆の支度も終わったころから店舗のの準備に入りました。
子供服のメーカー構成を考えるために3人で色んなところに視察に行きました。
西脇、津山、宝塚、三宮、茨木・・・色んな店を見て回りました。
車の中でオッパイを飲ませ、オムツを交換しながら見て回りました。
店舗の場所を考え、商品構成を考え、店舗レイアウト考え、家事をして、子供の世話をして・・・
まるで幸せは僕たち夫婦のためにあるように思っていました。
その当時も借入金は8000万円ほど残っていましたが、毎月順調に減っていたので、資金的なことも心配になりませんでした。

多分、人生で一番充実していた時だったと思います。