管理者は、大都市から離れた地方の田舎都市で生まれ育ち、大学から都会に出て、半導体エンジニアとして就職しました。
実家は、祖父の代から続いた小売商店を営んでいました。
父が経理、母が呉服を、長年勤めて頂いてる番頭さんが洋服を運営しておりました。
地元では老舗に入る店舗でしたが、所詮は地方の商店の域を出ないものでした。
しかし、零細ながらも日本中が高度経済成長、バブルで景気の良い時でもあり、順調に生活していました。

ただ、商売の潮目が大きく変わったのは母が病に倒れた昭和60年頃で、平成元年5月に母が亡くなると坂道を転げ落ちるように業績が悪化して行きました。
当時のライバル店は順調に業績を伸ばしていましたが 私の実家は、母が亡くなったことで父が生きることに対して気力を無くし、朝から酒を飲んで前向きな仕事をしないようになりました。
そのため、資金繰りが出来ず、十分な商品を仕入れることが出来ず、たまに実家に帰ったときには「商品さえ有れば売れるのに・・・」って従業員が嘆いていたのを聞いたのを覚えています。
資金繰りが悪かった原因としては、ショッピングローンやクレジットカードなどを使わず昔ながらの方法で掛売りをして売掛金を持ち、長い時間をかけて売掛金を回収していたため仕入れ商品の支払いに入金が付いて来なかった為だと思います。
仕入れ商品の支払いをするための銀行借入れも多額にあり、その返済もしなければならなかったためだと思います。
当時、銀行からの借入金は地方銀行、信用金庫の両方で1億2500万円程度だったと思います。
まだまだバブルの時代で不動産の地価が高い時期でもあり、借入れの担保は自宅でした。
当時は、55坪の店舗に従業員が7名ほどおり、今から考えれば過剰人員ですが当時としては他店と比較して特別差異のないものだったと思います。

当時、私は半導体エンジニアの会社員として、将来の妻となる彼女と都会で同棲をし、たまに実家に帰り、家業を手伝っていました。
父は、母という伴侶を亡くし、絶望感、孤独感、空虚感、無力感がいっぱいで何も出来ず日毎に弱って行き、実家の家業も益々落ち込んで行きました。
そのことは、後になって僕自身も妻を事故で亡くした時に同じ経験することになるので、当時の父の無気力な気持ちは十分に分かりますし、まず間違い無いと思います。
平成2年の秋、一人残された父が可哀想だし、私の店は従業員が皆長く働いてくれており、その従業員のことも考え、勤めていた会社を退職し家業を手伝うことにしました。
それに・・・
実家に帰ることを決断した最大の理由は、結婚したいと思っていた彼女(後の妻)が、当時、県立病院の看護師だったにも関わらず、「お父さん(僕のこと)!、 私たちが今我慢して お父さんの実家に帰って商売を続ければ 将来私たちの間に生まれて来る子供は、会社員にでもなれるし、地盤を使って商売をすることも出来る。 もし、私たちが帰らなければ生まれて来る子供が商売をしたいと言っても一から始める事になるのは大変だ。 生まれて来る子供の将来の選択肢を広げるために私たちは我慢して帰ろう。」 と、言ってくれた事が一番大きな理由でした。
人生にとって大きな決断をした後は、エンジニアとしての仕事のけりが付くまでは後に妻となる彼女と同棲をしつつ、週末ごとに実家に帰っていました。
ある程度、仕事のけりが付いた後は、彼女と離れて暮らすことなど微塵も考えられなかったので、朝都会のマンションを出て実家に帰り、実家で仕事をして、父と食事をした後に、コッソリ家を抜け出して彼女の待つマンションに深夜に帰るという生活をしていました。
無謀と言えば無謀な生活ですが、彼女と離れて暮らすことなど考えられない私にとっては致し方ない、充実したものでした。