最愛の妻を亡くして間もなく20年が経とうとしている。

この20年、妻のことを1日たりとも忘れたことはない。

平静な表情を装っていても、僕の心は、常に妻を、妻の面影を追い続けている。

何処かに出かけるとき、常に、横に妻がいてくれたらなぁ と思う。

夜になって一人ぼっちになったとき、寂しくてたまらない時、横に妻がいてくれたらなぁ と思う。

寂しさを紛らわせるためにアルコールにおぼれ、転寝から目覚めたとき、妻がいてくれたらこんな筈じゃないのに と思う。

今年、60歳の還暦を迎えるが、この先も一人ぼっちで生きて行かなければならないのかなと考えると奈落の底に落とされるような寂しさを感じる。

こんな思いをするくらいなら・・・人生から逃げ出したいと思って、簡単に死ねる方法をネットで検索してみるが、遺していく子供のことを考えると それも簡単ではない。

今まで子供を育てることが自分にとって唯一の仕事だ、と思って一人で育ててきた子供の心に耐えがたい心のキズを残してしまう事が分かり切っているから。

じゃ、今の絶望的な人生をどのように変え、どのように生きて行けば良いのだろうか?

 

今の日本には、介護難民があふれ、誰かの助けがないと生きていけないのに、助けてくれる人が居ない老人たちがあふれている。

自分の意志は持てないのに、医療技術の進歩により無理やり生かされている人が病院にあふれている。

医療技術の進歩により寿命は延び、啓もう活動の浸透により健康寿命も延びているらしいけど、存命医療技術の進歩のほうが早く、その差は縮まるどころか少しずつ広がっているのではないだろうか。

そんな状態の中で、元気なうちは良いかも知れないが、自分のことが自分で出来ず、どうにもならなくなったらどうすれば良いのだろう。

その時になってみて考えれば良い、という考え方もあるが、その時に認知症などによって考える力が無くなっていればどうすれば良いのか。

普通に見える生活をしている老人であっても、日々の生活に希望が持てなく、生きていることに恐怖を感じている人々が、年老いて余命が短くなることを喜んでいる人が実に多いのが現実の社会である。

 

自分の人生は、自分で組み立てていきなさい。

自分の人生だから、自分なりに自由に楽しく生きて行きなさい。

同じ人生なら、楽しまなくっちゃ!

という考えが理解できないわけではないが、生きている楽しさ、生きている苦しさが、自分で判断できなく時が必ず来るのが多くの人間である。

例外は、天寿を全うし、老衰で安らかに死んでいく人くらいであるが、それでいても、老いていく中においては誰かの助けがなくては生きて行けない。

自由に生きて行ける権利が万人にあるのなら、自由に死ぬ権利もあっても良いのではないか。

あまりに“自死”を罪悪視するのは、生きて行く権利を侵害しているのでないか。

どのように生きるかを自分で自由に選択できるのであれば、どのように死ぬかも自由に選択出来て良いのでは無いだろうか。

もちろん、どのように死ぬかを選択できる自由を行使するには、ある程度の条件が必要になってくるのは言うべきもない。

あまりにも若い人が自由に死ぬ権利を行使するのは許されることでは無いのは当然のことである。

その時の感情に押し流されたり、近視眼的な盲目になっている可能性が多々存在するし、今後の状況の変化で感情も変化する可能性が多いのだから。

それに対して、健康寿命を超えた人は全く別の考え方ができると思う。

今に普通に生活していても、将来に不安を抱えて、苦しんでいる人が殆どではないだろうか。

今が、肉体的、精神的に健康であっても、人生の長い四季“春夏秋冬”を生きてきて、これからの自分を見極められる経験が備わっているであろう。

自分で自分のことが考えられるうちに安楽死を選択できる権利が有っても良いと思う。

毎年か、何年かおきに安楽死を選択できる権利を行使し、安楽死を選択してから1年ほどの一定期間は実行できないが、一定期間のうちに自己の意志に変化が無ければ実行することが認められるというのはどうであろうか?

それが現実出来れば、絶望の中で苦しみながら、いつ来るか分からない寿命を待っている老人たちを救うことが出来る。

老化、孤独、不安・・・に苛まれて、社会に認められる中で“自分の死”を望んでいる老人は多いと考えられる。

“死”、“安楽死”こそが、自分が自由になれる時であると考えている老人は多いと考えられる。

社会がそのような老人を取り込んで、希望を持って生きてもらえるようなシステムを構築するというのは、もっともな話であるし、理想的な社会だとは思えるが、果たしてそれは現実可能なことであろうか?

少子高齢化で世帯の分離が進み、核家族が進み、壮年を含む若年者の都市への集中が進み、家族であっても個人の分離が急速に進んでいる今の社会の中で、地域の絆という言葉だけで全ての老人を救えるように考えるのは、とても浅はかな理想論だと考えられる。

世の中に取り残された老人、はみ出した老人にも、これからどのように生き、どのように死んで行くかを自分で選択できる社会のほうが現実的であって、悶え苦しんでいる老人にとっては優しい社会ではないのか。

自分で死を選択し、自殺を実行することは誰でも怖いことだと思う。

でも、社会が“死ぬこと”を許容してくれ、安らかに死ねる“安楽死”を認めてくれるのであれば実行は可能なことだと思う。